1925年8月15日カナダのモントリオール生まれ。
14才の時アマチュア・コンテストで優勝。その後カナダの番組にレギュラーで演奏する。1945年カナダで次第に名声を得ていたオスカー・ピーターソンはカナダRCAにレコーディング・デビューをはたす。その頃よりカナダに驚異のピアニストがいるとの評判がたち度々アメリカへ進出の要請があるもののすべて断っている。
1949年JATPを主催していたノーマン・グランツと運命的な出会いをする。コンサートの打ち合わせでモントリオールを訪れていたグランツはタクシーのラジオから聞こえてくるオスカー・ピーターソンのプレイを聴き急遽予定を変更してオスカー・ピーターソンをJATPに出演するよう説得ついにアメリカ・デビューを果 たす。
デビューがJATPのカーネギー・ホールでのコンサート。レイ・ブラウンとのデュオ。最初から黄金のコンビが結成されていた。オスカーのヴァーヴデビューは二人のデュオを収めた「テンダリー」だ。12インチの素敵なジャケットはジャケット美人コンテストにノミネートしたい。
ノーマン・グランツはオスカー・ピーターソンを重用し50年代ヴァーヴのハウス・ピアニストとして様々なセッションに起用した。
1951年オスカー・ピーターソン、レイ・ブラウン、バーニー・ケッセルの3人によるトリオ結成。いよいよオスカー・ピータソン・トリオが船出した。しかしバーニー・ケッセルがツアーを嫌い1年で退団する。
1953年ギターのハーブ・エリスが迎えられ前期ピーターソン・トリオが名実共にスタートする。3者の息もつかせぬ ダイナミックなプレイは好評を持って迎えられ、「シェークスピア・フェスティバル」は名盤の誉れが高い。ものすごいスピードでの3者のやりとりはスリリングだ。このトリオは6年間続くもののハーブ・エリスがアル中トラブルなどで 1958年退団し解散する。
しかしこのことが第2のステップとなる。ギターの変わりにドラマーのエド・シグペンが参加。「ザ・トリオ」と呼ばれた黄金のトリオがスタートすることになる。ロンドン・ハウスでのライブアルバムを筆頭に数多い名演アルバムをヴァーヴに残す。
しかし65年にエド・シグペン、レイ・ブラウンが相次いで退団し、オスカー・ピーターソンにとって試練の時を過ごす。
マーキュリーから心機一転ドイツのMPSに移籍ブルンナー・シュアーのもとオスカー・ピーターソンの新しいトリオがスタートする。この時期メンバーはめまぐるしく替わったがオスカー・ピーターソンのピアノは一番モダンなタッチをみせる。
1972年ノーマン・グランツがジャズ界に復帰、パブロ・レーベルを立ち上げるとオスカー・ピーターソンもパブロに移籍する。ここで長年活動を共にするベースのニールス・ペデルセンが参加、またジョー・パスともコンビを組んでアルバムを残す。
パブロは第2のJATPといった感じで様々なベテランミュージシャンを起用し、色々なシチュエーションで録音をした。オスカー・ピーターソンもヴァーヴ時代と動揺に様々なセッションに起用される。
とくにカウント・ベイシーと共演した「サッチ・アンド・ジョシュ」は忘れがたい作品だ。
1987年ノーマン・グランツは再び引退、オスカー・ピーターソンもフリーになりコンサート活動を中心に展開する。
1990年テラークと契約。再びアルバムをリリースする。「ライブ・アット・ブルーノート」はレイ・ブラウン、ハーブ・エリスとの久々の 再会セッションだ。
1993年オスカー・ピーターソンは脳溢血で再起を危ぶまれるも見事に復活、ただし以前のダイナミックさはなくなるが渋みのあるプレイを聴かせてくれる。
近年は車椅子の生活で左手が不自由だが右手で立派なプレイを。
鍵盤の皇帝、オスカー・ピーターソンにはまだまだ頑張って貰いたい。
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ざっとかいつまんでオスカー・ピーターソンの経歴を紹介しました。生まれて初めて買ったジャズレコード「ハロー・ハービー」あのときの感激はいまでも忘れられません。
その時の思いを綴ったエッセイをホームページで掲載しています。興味のある方はご覧下さい。
KOBAのジャズエッセイ「ジャズが好きだった」
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